「テロワール」という言葉をご存じでしょうか?
テロワールとは、農産物や食品の品質や特徴を決定する環境を指す言葉です。気候・土壌・地形などの自然環境は、農産物や食品の甘みや香り、味の独自性を左右する重要な要素と言えます。主にワインの分野で用いられる言葉ですが、昨今では日本酒に対しても使われるようになってきています。
山梨県ではワインだけではなく、日本酒の魅力も高めていくために「美酒美県やまなしテロワール確立事業」を展開。2023年に山梨県における日本酒テロワールの調査を行い、酒造りで重要となる仕込み水の特徴を明らかにしました。
当記事では、日本酒テロワールの調査結果をふまえて、山梨県の日本酒の魅力を紐解いていきます。調査をした地質学者の久田健一郎さんと、360年以上にわたって山梨の地で酒造りを続ける笹一酒造株式会社代表の天野怜さんにお話を伺いました。
久田健一郎さんプロフィール(地質学者)
元筑波大学教授。元日本地質学会副会長、現関東支部支部長。前日本地学教育学会会長。専門は地質学。2020年国税庁事業「地質に対応した日本酒仕込み水の水質分析体系化によるテロワール・ブランディング」において日本全国の仕込み水と地質の関係性の調査及び体系化を実施。本プロジェクトにおいては、文化地質学的の観点からの考察も含めて山梨の日本酒のテロワールについて深掘りを実施した。
天野怜さんプロフィール(笹一酒造株式会社代表 山梨県酒造組合会長)
1978年山梨県甲府市出身。2010年に笹一酒造に入社。2014年に伝統的な技術と現代的なアプローチを融合させたラグジュアリーブランド「旦」を立ち上げ、2019年に代表取締役社長に就任。同時期に山梨大学でワインの科学を学び、ワイン科学士の資格を取得。2015年から山梨県酒造組合と山梨県酒造協同組合の理事を務め、2021年には副会長及び副理事長に昇進。GI山梨日本酒の認定取得を主導。2023年11月に山梨県酒造組合会長及び山梨県酒造協同組合理事長に就任。現在、全国加盟酒造組合のトップで最年少。
INDEX
地質学から見る山梨県の成り立ち
-山梨県は地質学の観点で見ると、どのような特徴があるのでしょうか
(久田さん)山梨県は日本列島の中でも非常に特異で、多種多様な地層や岩石からできた複雑な地質で構成されています。
なぜ複雑な地質が山梨県にあるのかを紐解くには、日本海ができた頃に起きた大変動から知らなくてはなりません。
ユーラシア大陸の一部だった日本列島は、2200万年前頃に始まった日本海の拡大にともない大陸から分離しました。1500万年前頃までにかけて東北日本は反時計回りに回転し、西南日本は時計回りに回転したことで、フォッサマグナが形成されています。その大変動の痕跡が残るのが甲府盆地です。
太平洋側でも同時期に大変動が起きていて、今でいう御坂山地や伊豆半島が本州に衝突しました。そして、太平洋側からも強く押されて南アルプスが隆起し、最後に八ヶ岳や富士山が出来上がりました。
山梨県は、地球と日本列島の歴史の中でも大変動を経験した痕跡がある場所だからこそ、非常に特異な地質があると言えます。
-甲府盆地を取り囲む山にも地質学的な特徴がありますか
(久田さん)山梨県の山々を構成している石にも特徴があります。たとえば八ヶ岳のように火山からなる山は、火山灰や溶岩でできていて、甲府盆地を取り囲む山々の一部は花こう岩という御影石でつくられています。
御影石は非常に風化を受けやすく、時間とともにボロボロになっていく性質がほかの岩石と比べて強いものです。そうすると、だんだんと御影石は砂に近い状態になっていきますから、大きく見える山々の中を見ると砂のようなものでできているんですね。
そこで影響を受けるのは水です。もともと山梨県の北半分は降水量の少ない地域ですが、山に降った雨は火山灰や砂の中を通るため下に流れやすくなります。高い山に降った雨が、低い場所にある甲府盆地へ流れ込む。そうすることで、甲府盆地に水が豊富に集まり、ブドウ栽培や日本酒の仕込み水に活かせる環境がつくられました。
地質学の観点で見ても、山梨県の地形が日本酒に欠かせない良い水をつくりだしていて、活用しやすい環境にあると言えます。
6つの水系からなる仕込み水の違い
-山梨県はワインと日本酒の両方でGI(酒類の地理的表示制度)に指定された初めての地域です。その際、日本酒の仕込み水を県内6つの水系に限定しました。6つの水系ごとに味の特徴はあるのでしょうか?
(天野さん)山梨県には12の酒蔵があり、仕込み水を6つに分けたのですが、それぞれの特徴はまったく異なります。ひとつずつ異なる魅力を持っているので、それこそが特徴と言ってもいいですね。
山梨県は海に面していないですが、地中から湧き出てくる良い水を使って何百年もの間、日本酒がつくられてきました。良い水が出るのを知り、各酒蔵が工夫しながら酒造りに活かしてきたわけです。
しかし、地質や水質の調査をするまでは「良い」と言われている水にどのような特徴があるのか、語ることができませんでした。
久田先生がおっしゃるように山梨県はもともと複数の陸地がぶつかり合ってできた地域ですので、同じ県内でも酒蔵のある場所によって湧き上がってくる水質が異なると調査で判明しました。これまで代々受け継いでやってきたことが、調査からわかったデータにもつながって、より強い根拠をもって語れるようになっています。
山梨県の大地が酒造りに欠かせない良い水を生み出し、それぞれの酒蔵を特徴づけているというふうに思っています。
-たとえば笹一酒造の日本酒はどのような味を感じられますか?
(天野さん)うちの場合だと、口に含んだ瞬間に澄んだ湧き水のすっきりとした味わいが広がり、そのあと豊かで複雑な旨味が残ります。そして最後には再び爽やかさが戻ります。
複雑な味とも言えるのですが、世界的なソムリエの各大陸チャンピオンがうちの水を飲んだときに「3つの味がする」と言っていました。世界的なソムリエでも、3つの味がするタイプの水は飲んだことがなかったそうです。
それを久田先生の調査チームに話したら「確かに笹一酒造の場所は3つの地層を通って水が湧き出てくるので、3つの味がする可能性はあります」と。味わいは地学の観点から裏付けられた特徴があると思っています。
(久田さん)雨には、そもそも成分がほとんど入っていません。雨が地面に染み込んで湧き水、あるいは井戸の水となる前に、地中にある岩石などに含まれているカルシウムやマグネシウムなどの成分を取り込んでいきます。
どの岩石の成分を水が吸収しているかは簡単に説明できませんが、笹一酒造さんで調査した斜面には大きな違いのある岩石が3種類あったのは事実です。これが複雑な味をつくり出している理由になると思います。
もちろん温度や水温などの要素もありますが、山梨県は6つの水系ごとに岩石が違いますから、それらが味や成分を作り上げているのは、ほぼ間違いないと考えています。
-実際に山梨県の日本酒テロワールを体感してみたいときは、どこへ行ったらいいでしょうか
(天野さん)試飲できる酒蔵や甲府市内の飲食店で日本酒を揃えているところに行ってみると良いと思います。仕込み水の奥深さは世界一だと思っているので、日本酒の複雑な味わいの違いを感じつつ、水の味まで想像して飲んでもらえると楽しいですよ。
6つの水系すべてが違った個性を生み出している点が共通項です。地域差をぜひ感じてほしいと思います。
歴史・文化・酒蔵ごとのストーリーもテロワールの要素
-テロワールには宗教や歴史、文化的な要素も含まれます。山梨県のテロワールを語るにあたって歴史的な背景はありますか?
(久田さん)中部高地からは縄文時代の遺跡や土器などが多く出土しており、日本遺産に認定されています。縄文時代から始まるいろいろな歴史が、酒造りの流れにも非常に重要な意味があると感じています。
山梨県の甲府盆地を中心とした高い山々に囲まれている地形が、縄文人にとってスピリチュアルな気持ちをかき立て、神と交信する儀式のために酒造りを始めたという説もあるほどです。出土された縄文式土器からはアルコールを発酵させたような痕跡もあるんですよ。
これはヤマブドウを使った葡萄酒の源流のようなものだと思いますが、縄文時代の頃から酒造りに恵まれた自然環境だったとうかがえます。
(天野さん)笹一酒造の日本酒は北口本宮冨士浅間神社にお納めしています。この神社は西暦110年にヤマトタケルが相模国から甲斐国へ入る際に立ち寄ったとされていて、山を下りる途中に通った場所が御坂(みさか)という地名になりました。ヤマトタケルが通ったところの地下水を使った日本酒であることから、北口本宮冨士浅間神社に奉納しています。
また、明治天皇が東京から京都にご行幸する際に携行された水でもあります。自分たちの中では、歴史のある由緒正しい水で仕込んできた流れもテロワールだと思っています。この歴史ある水を使用することで、私たちは単なる酒造り以上の、山梨の歴史や文化を一滴一滴に刻んでいます。
山梨県ならではの日本酒をテロワールで世界へ
-今後、山梨県の日本酒テロワールをどのように活かしていきたいですか?
(天野さん) 世界中で日本酒に注目が集まり、海外の高級レストランの料理と一緒に提供されるようになってきました。普段は赤ワインが飲まれるような場面で、日本酒が選ばれることも増えています。
ヨーロッパのお客様に酒造りの話をすると「なぜ、この品種や原材料を使って山梨でつくるのか」と興味を持ってもらうことが多くあります。山梨県の特異な地形、御坂の成り立ち、代々受け継いできた文化を、仕込み水を中心としたストーリーで国内外に伝えていきたいです。
地質の調査から、山梨県の水が世界的に見ても非常に良いことがわかったので、データも交えて県産日本酒の価値やブランドを高めていきたいですね。山梨のテロワールを国内外に伝えるため、今後は海外市場にも積極的に進出し、地元の文化や自然を味わえる日本酒として広めていきたいです。
(久田さん)地質学の観点で見ると、ワインと日本酒を一緒に楽しめるのも山梨県の魅力のひとつだと思っています。甲府盆地からワインも日本酒もつくれるのは大きな特徴です。
ワインと日本酒は別物として捉えられがちですが、これからはペアのような存在になってほしい思いがあります。フランス料理と一緒にワインと日本酒を楽しむ。2つのお酒をたしなむ、新しいスタイルの楽しみ方を提案できるのも山梨ならではだと思います。
調査をいくつかやってきましたが、山梨県の調査は地下水をどのような言葉で表現するか自分なりに見えてきました。日本酒醸造の大きなポイントになり得る結果が得られたと思っています。
日本酒を歴史・地質などをふまえたテロワールの視点で、どんどん広めていってほしいです。日本酒造りの背景や文化を学んだり、語り合ったりしながらお酒を飲むのも、これからの時代はあってもいいと思います。
-最後に、山梨県の日本酒テロワールの魅力を一言で表すとしたら、どのように表現されますか?
(天野さん) 「山梨の風土と歴史が育んだ水で醸す、他にはない唯一無二の日本酒」だと思います。
(久田さん)「山梨県の酒は、日本の酒の源流を持っている」と強調したいです。日本酒の源流は関西のほうにあるという意見もありますが、神との交信という面では重要なファクターが山梨にあると思っています。
日本の中でも超軟水である清水が湧き出る地域なのは間違いないわけで。地質的にわかった水の特徴と歴史・文化の結びつきを感じさせるのが山梨の日本酒だと私は思っています。
まとめ
山梨県の日本酒の魅力をテロワールの観点でお伝えしました。
日本酒を単純に飲むだけではなく、使われている豊富な仕込み水がなぜ山梨の地に存在するのか、どのような歴史・文化で酒造りが根付いてきたのかという背景にも思いを馳せながら楽しんでみてはいかがでしょうか。
本記事で紹介した日本酒のテロワールは、ほんの一部分です。さまざまな角度から山梨県の日本酒テロワールを知り、味わっていただければと思います。
山梨県を訪れる際には、酒蔵や飲食店などで仕込み水の違いからくる味わいの差をぜひ体感してみてください。県内にある12の酒蔵は、山梨県酒造協同組合の酒蔵マップに掲載しています。酒蔵ごとに歴史や味わいの特徴を知ることができるので、ぜひご覧ください。
また、山梨県では日本酒のほかにワインのテロワールにも積極的に取り組んでいます。日本酒もワインもつくることができる山梨だからこその取り組みです。今後のイベント等にぜひご期待ください。