急速な高齢化と医療費の増大が社会課題となる中、山梨県が今、次世代のヘルスケアモデルを社会に実装する「挑戦の地」として注目を集めています。その中心にあるのが、オミックス情報・IoT・AIを統合し、一人ひとりに最適な健康行動を導き出す「先制医療」プロジェクトです。病気になってから治すのではなく、日々の暮らしの中で健康を取り戻す——そんな新しい医療のかたちを、山梨から発信しようとしています。
プロジェクトを牽引するのは、山梨大学大学院総合研究部医学域・社会医学講座の准教授であり、大学発ベンチャー「Taomics(タオミクス)株式会社」の代表取締役を務める大岡忠生さん。ハーバード大学でAI・疫学・オミックス研究を重ねた大岡さんは、「最も早く社会実装できる場所」として山梨を選び、現在は行政・大学・企業・住民が一体となる官民共創体制のもと、この取り組みを推し進めています。
このプロジェクトは2025年12月、採用率が低く難関とされている文部科学省・JST(国立研究開発法人科学技術振興機構)の社会課題解決プログラム「COI-NEXT未来共創分野」に採択。山梨県や中央市をはじめ、大学、企業が連携する国内最大級のヘルスケアプロジェクトとして動き始めました。
なぜ、この挑戦の舞台は「山梨」なのか。「病気にならない世界」とはどのような未来なのか。大岡さんの言葉から、山梨発・医療革命の輪郭を探ります。
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体の中のあらゆるデータを、健康のための資源に変えていく

――まず、今回のプロジェクトのカギとなっている「オミックス」とはどのような概念なのでしょうか。
大岡さん(以下、敬称略):ざっくり説明すると、オミックスとは「体の中にある情報すべて」です。遺伝子やタンパク質、腸内細菌など、体をかたちづくる分子レベルの情報を指します。
流れで言うと、遺伝子の設計図からタンパク質がつくられ、これが臓器や細胞で使われると代謝物が生じる。この一連の流れの中にある要素の総称がオミックスです。これを情報として取得できれば、体の中で何が起きているかを立体的に把握できます。
――ITの世界でいう「ビッグデータ」に近いイメージでしょうか?
大岡:そうですね。たとえば血液には何万種類もの物質が含まれています。それを精密に計測して「このタンパク質がどれくらいある」と数値化する。従来の健診がいくつかの項目を点で見るのに対し、オミックスは体全体を面・立体で捉えるためのデータと考えてください。
オミックス×IoT×AIで目指すは「病気にならない世界」
――山梨で進めている「オミックス・IoT・AIで健康と社会を最適化する山梨ヘルスケアセントラルシティ未来共創拠点」について、概要とビジョンを教えてください。

大岡:これは山梨大学が代表機関、山梨県・中央市が幹事自治体、東京大学・ハーバード大学・Google・大塚製薬・電通・積水ハウスなどがパートナーとして参画する産学官民連携の大規模プロジェクトです。目指しているのは、オミックスとIoT・AIを組み合わせて一人ひとりに最適な健康行動を提示し、生活習慣病を予防・制御する仕組みを社会実装することです。
具体的には、主に2点。
- 採血でオミックス情報を、IoTデバイス(スマートウォッチなど)で心拍・歩数などのバイタルデータを取得し、AIを駆使してデジタルツイン(仮想現実上に対象者を再現するリアルなコピー)をつくる。
- そのデジタルツインで、食事・行動・薬品・環境のシミュレーションを行い、最も有効な改善策(予防医療)を提供する。
――という流れです。

――なぜ、予防医療に注力するのでしょうか?
大岡:現代の医療は「医療依存型予防」に偏りがちです。「具合が悪くなったら病院へ」という考えでは、構造は変わりません。山梨県は、特定保健指導を受診し指導を終了した率が全国平均の2~3倍高いのに、医療費や生活習慣病の患者数は思うように減っていない。多くの人が通院し、薬を飲むことで安心してしまっているのが現状です。
そこで、私たちが目指すのは「住民主体型予防」への転換です。オミックス情報を活用すれば、遺伝的要因も踏まえて個人に最適化された健康への改善策を提案することができます。

たとえば、今の健康診断では「血糖値が高く、糖尿病のリスクが高い」という結果が出ても、「食生活を改善してくださいね」といった一律の助言しかされないですよね。
一方でオミックス×IoTを用いた診断なら、「あなたは体質的に、食生活の見直しよりも運動が一番効果的です」「食事も運動も問題ないので、睡眠を改善しましょう」など、その人に合った具体的な行動提示が可能になります。こうして街全体で予防医療の仕組みを整えていければ、やむを得ない病気を除いて「病院に行かなくてすむ世界」「薬のいらない世界」に近づけられると考えています。
予防医療に注力しようと思った契機は、医師になりたての頃にあります。研修医時代、若くして亡くなった患者さん、もう少し早く受診していれば防げたはずの病気で苦しむ患者さんを、何人も見てきました。患者本人だけでなく、かたわらで悲しむご家族の姿が今も目に焼き付いています。病気を未然に防ぐことで、人々の深い悲しみを予防したい——それが今も変わらない私の出発点です。
健康意識と地域性、山梨が舞台だからこそ邁進するプロジェクト

――2024〜2025年に県内で実証実験を行ったと伺いました。その内容と手応えは?
大岡: 215人を対象に、3ヶ月のコホート研究(特定の集団を一定期間追跡して健康状態の変化を観察する研究手法)を行いました。参加者全員にオミックス検査とスマートウォッチを提供し、「Taohealth」というアプリで毎日の食事・行動・睡眠などを記録してもらい、『生体情報×生活習慣×糖尿病』の関連を解析しました。
継続率は99.5%(215人中214人が最後まで参加)。コホート研究では一般的に脱落率が約20%で、継続率80%程度が「良好」とされている中で、驚きの数字です。
成果の面では、HbA1c(過去1〜3か月の血糖コントロールの指標)は参加者全体のおよそ76%が改善し、体脂肪率も参加者全体のおよそ60%が改善しました。その他の複数の検査項目でも数値の改善がみられ、医療費換算でおよそ5,000万円の削減効果に相当する結果となりました。本格的な個別カウンセリング前の段階での結果なので、今後個別アドバイスまで実装できれば、さらなる効果が期待できます。
――このような最先端の予防医療プロジェクトを、なぜ山梨で行おうと決めたのでしょうか?
大岡:いくつか理由があります。まず、山梨県が人口約80万人というコンパクトな地域であることは大きいですね。県民がよく行く病院も一定のエリアに集中しているので「誰がどういう健康状態で、どんな病気になったか」というデータを把握しやすい環境です。これが東京などだと、データを集めるだけでもたくさんの病院と協力しなければならず、進捗が重くなってしまうでしょう。
加えて、県民の健康意識の高さが挙げられます。健康寿命ランキングでもトップクラスをキープしていて、行政や企業、市民の協力を得られやすいだろうなと思っていましたし、実際にそうなっていますね。
さらに、リニア開通を控え、国内外から注目を集めるタイミングです。いま「ヘルスケア最先端のまち」として地域を盛り上げ、発信できれば、世界に誇れるヘルスケアシティになれるポテンシャルがあると考えています。

大岡:実は、本プロジェクトは、東京(東京大学)やアメリカ(ハーバード大学)で進める選択肢もありました。ただ、いろいろな観点を踏まえ「最も早くこの予防医療のシステムを完成させられる場所」を考えたとき、山梨がベストだと判断しました。
行政のみなさんとの関係も良好です。県知事へのプレゼンでも高い評価をいただき、部局横断の協力体制が整いつつあります。県内外の企業とも協力関係が広がっており、研究の参加者からもおおむねポジティブな反応をもらっています。行政・大学・企業・住民が同じビジョンを持って動けている実感があり、これは山梨でだからこそ生み出せたフォーメーションだろうなと感じています。
1,000人から10万人へ、そして世界へ。山梨をヘルスケア先進エリアに

――今後の目標やロードマップをお聞かせください。
大岡:2026年4月から被験者を1,000人規模に拡大した研究が始まります。オミックスを経時的に取得する調査研究として世界最大規模の試みです。つまり、この調査を通して、世界で最も確度の高いエビデンスが得られる可能性があります。
こうした調査・実証研究を繰り返しながら、2031年度までに10万人規模のヘルスケア・バイオバンク(生体情報の大規模データベース)を構築し、行動変容まで促すサービスを具現化します。215人で約5,000万円の医療費削減効果があったので、1,000人では約2.5億円、10万人では約250億円以上の医療費削減効果が見込めます。
今回は、商用利用も可能なオープンデータ基盤をTaomicsを通じて整備し、データを活用した企業の商品開発→住民価値向上→地域の資金循環という持続可能な地域環境基盤を山梨から生み出したいと思っています。
――最後に、本プロジェクトへの参加を考えている一般の方にメッセージをいただけますか。
大岡:「この年齢の自分のオミックス」は、今しか残せません。数千種類のオミックス情報を通して、これまで分からなかった⾃分の体質の癖や、⾃分に合う⽣活スタイルが見えてきます。どの病院で診てもわからなかった体質が、オミックスを通して明確に見えてくる可能性があります。そういう記録を定期的に取って、経年変化の様子も記録に残していくと、受けられる予防医療のアドバイスの精度は格段に高まります。
3回の来院や毎日のアプリ入力は手間かもしれませんが、自分のデータで健康状態を把握する経験は、前回の参加者からも多くの感謝の声が寄せられています。そしてこの研究への参加は、県・市を盛り上げること、未来の医療を発展させることにも直結しています。いつか「ヘルスケアといえば山梨」と言われる日を目指して、ぜひ一緒にプロジェクトを盛り上げてくださったらうれしいです。

⼭梨マルチオミックスコホート研究 研究参加者募集ページ
https://yamanashimultiomicscohortstudy.powerappsportals.com/
文・西山武志、写真・中込 涼


